さようなら、いままで足をありがとう
どうも,橋梁趣味者です.まるさともいいます.
この記事はまるさのぼっちアドベントカレンダー2日目の記事です.
今回も前回に引き続いて,まるさがどんなとき「良い橋」と感じるのかという視点から橋を紹介します.
沖縄北部の名アーチ
昭和59年に完成した橋なので,架設から30年ほどということになります.
瀬底大橋*1 CC BY-SA 4.0
この橋は架設当時の地元住民たちたっての願いから計画された橋です.
もちろん立地と景観性の高さも「美しい」と思える要因ですが,たくさんの人の想いを渡した橋である,というようなところもこの橋の美しさのひとつなのかなあと感じます.
設置の嘆願
・住民の事情
瀬底島は,沖縄本島と750mほどの海峡を挟んで離れた周囲7km強の小さな島です.
瀬底大橋とその周辺の地図
橋が渡される前は,毎日船(瀬底丸)が何往復もすることで物資のやりとりや学生の通学等々を行っていたようです.
建設当時の様子は県のアーカイブが残っています.
沖縄は台風王国ですから,台風がくるたびに船がとまり,物資調達に苦戦することになります.
他の緊急時においても船で本島と行き来しなければならないなどの多くの不便さもあって,かねてより橋の建設は住民の願いとなっていたわけです.
・設置に関する事情
当時全長750mを超える橋は沖縄県最長の橋となり,海峡を往来する船を通すための桁下のクリアランスの確保の課題もあって,技術的に大きな困難を伴う開発でした.
瀬底大橋は昭和47年には架橋計画が策定されていた様子*2ですが,昭和48年の第1次オイルショックから一時計画がとん挫してしまったようです.
最終的に昭和54年頃から本格的に工事が始まり,それから6年かけて橋が開通することになります.
最初の計画から数えても13年以上,という長い長い時間のかかった架設でした.
・技術課題とアプローチ
昭和50年,沖縄国際海洋博覧会のために瀬底大橋予定地の南に新本部港が整備されます*3.
大型船の通過を考慮して,中央で径間と桁下高を大きくとる必要がありました.
加えて海のそばということで風があり,台風の時にはさらに強い風が吹きつけることになるため大きな剛性が必要になります.
常に潮風が吹き付ける錆環境もあって,橋にとって大変過酷な環境であるといえます.
結局,景観性を考えてニールセンローゼ橋にすることになったようです.
通常のアーチ橋と違って吊材がワイヤで細く作られているので周囲の景色が大切にされる橋でよく採用される形式です.
また,風の影響を考えてバスケットハンドル型のアーチを採用することになりました.
このような形にすることで橋全体のねじり剛性が高くなる
さらにニールセン形式におけるワイヤの防錆対策は当時前例も少なく*4, 塩害対策にも大変気を使った施工になったようです.
設置の効果
・設置当時のようす
長年待望だったということもあり,主径間の架設では多くのギャラリーがあつまり,大盛り上がりだったようです.
主桁架設完了で思わず踊りだす人々 (くがに橋-瀬底大橋建設の記録-より) *5
記念式典の様子からも,たくさんの人が待ちわびた橋だったのかな,ということがうかがい知れます.
盛大な開通記念式典 (くがに橋-瀬底大橋建設の記録-より)
美しいですねえ・・・
求められ,技術で応える.そんな素晴らしいことがありますか(!)
とはいえ
これに伴って,本島と瀬底島を結んでいた瀬底丸が地元の人に見送られながら退役することになります.
こう,言葉にはできないけど,せつなさがある.
当時の様子は先ほど紹介した映像アーカイブを見るのが一番だと思います.
・設置後のようす
開通後の状況について,ちょっと詳細はわかりませんが行政の資料*6を拾いましたw
瀬底ビーチで年間10万人の観光客があり,それだけでも億単位の経済効果があったとまとめられています.
実際沖縄に住んでいたぼく自身も気に入ったカフェに通ったりペンションに泊まったりしていたわけで,農業中心だった島の環境は大きく変わったといえそうです.
沖縄県でも有名な巨大な廃墟があったりするのですが,ヒルトンがこれを買い取って巨大なリゾート施設を作るニュースもあがっています.
静かなところが好きだったりするのですが,まぁ発展することは悪いことではないと・・・(うるうる)
橋ってすごい
橋はすごいです.たくさんの人の生活を激変させる力を持っています.
単に構造萌えというわけではなくて,橋がいろんなものを繋いでいるその姿が好きなのかなあと瀬底大橋をみて感じます.
というわけで,「背景を味わう」という観点で橋を紹介しました.
それでは,
今回はこのへんで ノ
まるさ